税制改革の議論は行き詰まり、国会の機能が停止して二か月。この頃になってようやく議事堂前での騒乱も下火になり、社会が少しずつ平穏を取り戻しつつあった。止まってしまった国会を再び動かすため、与党幹部らは野党に協議を申し入れる。野党側は当初難色を示したが、一人、また一人と協議に応じる議員が現れ、やがて過半数の議員が協議に応じることとなった。

 

 

 

与党側は協議に応じた野党議員をどうにか味方に引き入れるため、様々な案を提示した。野党側もこれに対して対案を示し、議論は一昼夜の長きにわたって行われた。その結果、我が国は高福祉高負担を受け入れること、そのために消費税を段階的に30%へ引き上げること、年金、生活保護の生活扶助の廃止、対案として年所得500万円以下の国民への月6万円のベーシックインカム導入、これらの政策を掲げての解散総選挙を約束し、協議は終了した。協議終了後、与野党はただちに選挙態勢に入る。我が国の命運を決める選挙が近づきつつあった。 

 

 

 

選挙は与党が単独過半数を得、絶対安定多数には及ばなかったもののどうにか勝利を飾った。これで政権は国民の信託を獲得しひとまず終わりを告げる、誰もがそう考えていた。

 

 

 

悲劇は投開票の翌日に起きた。東京、大阪、名古屋、これらの都市で突如、武装した十数万の暴徒が軍の施設、警察署などを襲った。暴徒の大半は共産党員と外国人からなり、我が国はこのときをもって事実上の内戦へと突入することになる。この動きはすぐに全国に波及し、多いところで十万人以上の暴徒が兵を挙げた。背後には大陸の各都市からの支援があったと言われている。

 

 

 

政府は直ちに軍、警察を出動させ鎮圧にあたる。だが、戦争によって多くの兵力、装備を失っていた政府はこの戦いに苦戦を強いられた。結果、東日本においては政府側が勝利したものの、反乱軍は新潟に逃げ延びて徹底抗戦を続ける。西日本においても政府側が勝利したものの、広島、山口では反乱軍が徹底抗戦を続け、西日本における兵力の大半を失った政府側は両県の放棄を決定。それでも反乱軍は両県に留まらず、守りの手薄な鳥取、島根を占拠。そのまま岡山へ進軍し、政府軍は敗走。こうして、政府は中国地方と新潟を失う。このときをもって我が国は政府側と反乱軍側に分割されることとなったのである。