動乱③

戦争終結後、初となる解散総選挙は史上最高の盛り上りを見せた。各党党首は公示前から全国を回り、所属議員、党員、支持者たちは全国各地で集会を開いた。都市部から地方の小さな町に至るまで演説の声が鳴り響きビラが撒かれ、テレビ放送ではどの局も通常番組を中止して選挙の模様を取り上げた。

 

 

メディアによる世論調査も盛んに行われた。その中で国民を驚愕させる事実が報道されたのは、選挙戦が始まって間もない頃だった。戦争前、長年安定した支持率を保ってきた保守合同政権が、惨敗する。そうした調査が発表された。防衛力の強化を唱えて国民に重税を強い、西の大国の兵器を大量に購入させられた挙げ句に東の大国に陸海空全ての会戦で破れ、国土を荒廃させられた上に早期に降伏し、他国の軍隊を我が国の領土に進駐させた責任、今後どのように国土を復興させるか見えない不安、そうした状況にあって、無党派層の大部分の支持が離れたことが痛手になったという。

 

 

一方で、左派市民連合と右派自治政党の支持率は拮抗していた。左派市民連合は国民の生活再建を掲げて完全雇用を訴え、外国債の大胆な売却による財源確保を提案し、右派自治政党は徹底した緊縮財政と地方の自立、他国に依存しない独自の防衛体制を目指すと訴えた。なお、共産党保守合同政権解体と戦争の責任を問う裁判を開くよう声高に叫んだ。

 

 

 

迎えた投開票の日。各地の投票所には朝から長蛇の列が並んだ。都市部も地方も投票所に入るまでに二時間待ちは当たり前といった状況が夜まで続き、職員は対応に追われ、一部では有権者同士の小競り合いが起きるなど、現場は混乱した。通常であれば投票が始まる以前から各局によって第一党になる政党がおおむね予想されることが通例ではあるが、このときはあまりにも左右の支持率が拮抗していたため、大手メディアでさえ優劣の予想がつけられない事態となった。

 

 

 

結局、二十時に投票が締め切られるまで投票所の混乱が収まることはなかった。直ちに開票作業が始まり、全メディアが各党の獲得議席を実況放送したが、結果が出るまでは明け方までかかると伝えられた。

 

 

 

国民が眠れぬ夜を過ごした後の運命の朝。第一党になったのは左派市民連合だと判明した。第二党は右派自治政党、保守合同政権は議席を十分の一にまで減らす惨敗を喫した。一方共産党議席を二倍に増やし健闘した。

 

 

 

この日から始まったのが、左派による旧保守合同政権への弾圧と政治的暴力だった。まず、旧保守合同政権の議員や党幹部が次々に逮捕され、投獄された。彼らは党員や主だった支持者の氏名、住所を自白させられた後、用済みとなった者から順に吊るされた。そして、情報をもとに一人また一人と逮捕され、その多くは釈放されないまま行方不明となった。これによって旧政権は機能停止に陥った。

 

 

 

さらに市民の間でも右派と左派に分かれての暴力が各地で起きた。左派は革命と称して右派を襲撃するといった事案が各地で起こった。他にも皇居や宗教施設への襲撃、略奪が行われ、政権はそれを黙認していた。そのため右派もこれに対抗して武装し、国内は準内戦の様相を呈してきた。全国各地で右派と左派の分断と暴力の嵐が吹き荒れる。一歩街に出ると、いつもどこかで怒号と罵声が聞こえ、道端には人が血を流して倒れている。そんな四年間だった。

 

 

 

この年月の間に旧政権の関係者は弾圧によってほぼ粛清され尽くし、それによって皮肉にも我が国は左派と右派の二大政党制に近づいた。また、左派市民連合各党の連携で外国債の売却、財政出動が行われ、戦火によって被害を受けた都市も少しづつではあるが復興の兆しを見せた。一方で左派と右派の対立は激化、国は大きく分断されることとなった。また、中央政府そのものへの信頼も弱まり、加えて政治的暴力から地域を自衛するために地方の住民は結束するようになり、地方自立の動きが高まった。これが後に、この国の新しい形が作られる上での基礎となるであろうことは、この時点では誰も知らなかった。