動乱④

あの左派政権の四年間は何だったのか、少し筆を休めて振り返りたいと思う。

 

 

 

左派市民連合は、大小様々な左派政党の集合体である。それぞれ理念も政策も違うが、連帯することで戦後初の政権を担うことになった。彼らがまず直面したこと、それは荒廃した国土の復興、そのための予算の確保だった。左派政権としては、増税をしないという前提で選挙に臨んだため、増税という選択肢は初めから奪われていた。連合内の一部政党からは、大胆な新規国債の発行という案も出たが、他党では慎重論が大多数だった。そのため、増税でもなく国債発行でもなく、外国債の売却での財源確保というところに重点を置くこととなった。

 

 

 

我が国は外国債を多く抱える債権国でもあった。これを段階的に売却、実質は切り売りであるが、これによって一定の財源を生み出すことは可能である。外国債を段階的に売却しつつ、国民に負担を強いずに国土を復興させる。そうした計画のもと、我が国の復興は始まった。

 

 

 

始めの一年近くはうまくいっていたように思える。戦災で焼け落ちた都市部も徐々に整備されていき、道路、鉄道などのインフラもわずかではあるが修復された。加えて、家屋が全壊した人々が入居する公営住宅も、都市部を中心にちらほらと建設が進んだ。ライフラインも少しずつ回復し、街には灯りがともった。街頭では炊き出しも行われるなど、多少なりとも活気が戻った姿も見られた。

 

 

 

だがそんな新政権の一年目、支持母体である労働組合が生活再建を理由に賃上げを要求して一斉にデモを起こしたところから雲行きが怪しくなっていった。ほとんどの企業は戦争で大なり小なりの損害を被っており、賃上げに応じる余力はなかった。そこで、不足分を国に負担するよう企業側も組合側も要求し、これに予算を割かなければならなくなった。国も労働組合と粘り強く交渉し、最終的には要求の半分ほどの賃上げを行うと約束し事なきを得た。

 

 

 

だが、さらに問題は起きた。戦争の影響で職を失った失業者が、各地で生活保護の申請を行うため役所に列を作ったのだった。自治体はその対応に追われ、戦災というやむにやまれぬ事情から多数の申請を受理せざるを得なかった。この保護費が地方財政を圧迫し、自治体は政府に地方交付税交付金の増額を要求、政府はこちらにも予算を割り当てることとなった。

 

 

 

年が明けて二年目、各地の市民団体が要求したのが、一律給付金の支給だった。現在の政府の施策では生活再建のための富が全体に行きわたらず不十分だとして、国民一律の給付金と減税を求めて全国の活動家が国会前に集まるといった事案が発生。初めは政府も黙殺したが、政府内の小規模な政党がこの活動に加わってから事態が変わった。政府内の連帯が崩れ、右派に付け入る隙を作ることを恐れた政府はやむを得ず年内の一律給付金支給と減税を決定してしまう。こうして、当初生み出した財源は瞬く間に底をついたのだった。

 

 

 

これらのことがあって、政府は当初の計画通りに国土の復興にのみ注力することが不可能になった。確保した財源は二年目で底をつき、減税措置も約束した影響でさらに財政は悪化し、身動きの取れない状況となった。このため、引き続き政権運営を行うためには新規国債の発行しか道はなく、政府内の一部政党はこれを強く求めた。こうして二年目以降は主に国債発行によって予算編成を行うこととなった。右派はこうした政府の姿勢を糾弾し、財政再建と緊縮を求める。国会は常時大荒れだった。初めは高かった政府の支持率も二年、三年と過ぎるごとに着実に下がっていった。もはや打つ手がないまま、国民の審判を受ける四年という期間は過ぎ去ろうとしていた。