動乱②

戦後、我が国では本土を敵の手に明け渡し、国土の大半を荒廃させた政府与党への激しい責任追及が幕を開けた。西側陣営の一国として戦争に勝利したというのは建前で、実際には我が国の政府は戦争終結前に降伏していた。加えて全国のインフラ、建造物に与えた壊滅的損害、生産設備の破壊による物価の高騰と高いインフレ、地域によっては人口が戦争前に比べ半減し自治体が機能不全に陥るなど、実質的に我が国の状態は敗北に近かった。その怒りの矛先は戦争を引き起こした当事国と同時に、政権にも向けられたのだった。

 

 

終戦後初めて招集された議会において、右派自治政党は今回の戦争における政府の弱腰な態度を、左派市民連合共産党は戦争で被った損害の責任を、それぞれ厳しく追及した。与党保守合同政権はどちらの追及に対してもしどろもどろな答弁を繰り返したことで議会は紛糾、収拾不能に陥った。議事堂前では数万人もの市民が大挙して押しかけ、首相の辞任と保守合同政権の退陣を求めてシュプレヒコールを上げ、警官隊と衝突するなど、我が国の中枢は麻痺しかけていた。

 

 

 

そんな状態が数か月は続いただろうか。戦禍からの復興は遅遅として進まず、徐々に国民の心は政権から離れていった。右派自治政党は内閣総辞職を、左派市民連合共産党解散総選挙を求めて、それぞれ一斉に議会を退席。ここに、議会は審議継続不可能となり、その機能を停止した。保守合同政権は党として特別委員会を開催して今後の対応を協議したが、ここでも内閣総辞職派と解散総選挙派の意見が対立し、一向に結論がまとまらなかった。直後、全国の大手マスコミによって内閣支持率が10パーセントを切っていることが報道され、もはや政権を維持するのが難しい状況にあることが全国民に知れ渡ることとなった。

 

 

 

首相以下、閣僚たちの間でも現政権の維持は短期的にも長期的にも維持できないという声が高まった。閣僚の半数は、内閣総辞職を行っても支持は回復しないと見通していた。一度とはいえ敵に降伏し、国を明け渡してしまった責任はそれほど重くのしかかっていた。何よりも荒廃した国土、高いインフレ率、山積みの課題に対処するだけの力も精神力も、誰一人持っていない、議会でも野党の協力を得られない、このような状況で政権を担当することは、疲弊しきった首相、閣僚には不可能だった。

 

 

 

かくして、首相は解散総選挙を決断。この日から、事実上の選挙戦が始まることとなった。もはや一寸先は闇のこの状況で、誰に一票を、政治を託せばいいのか誰にもわからない混迷した世相。不安と絶望の中で喘ぐ国民。そんな中で告示された総選挙。恐らく、大多数の人々は少しでも平和な世の中が来ること、平和で安定した国造り、そういったものを期待していたことだろう。しかしついに、そんな儚い願いも叶うことはなかった。悪夢はまだ終わらない。