動乱⑤

左派政権の四年間は、ただひたすら国民に迎合しバラ撒きを続け、財源が尽きたために戦災復興が遅々として進まなかった。始めは高かった支持率も徐々に落ち、任期が終わるまで回復することはなかった。

 

 

四年間の任期が終わった年の解散総選挙で、左派連合は二期目の政権獲得に全力で望んだ。しかし、政策は相変わらずのバラ撒きが目立ち、財源を明確に示せないことから支持を拡大することはできず、全国で苦戦を重ねた末に、結局は僅差で敗北。二期目の政権を手にすることはできなかった。

 

 

左派連合に変わって過半数議席を獲得したのは右派自治政党だった。自治政党はこれまでの大衆迎合的な政治を改め、バラ撒きをやめ、小さな政府を目指す一方で戦災については強力に復興を進めるという政策を掲げて、結果的には国民の多くの支持を集めた。これでようやく我が国も戦争前の姿に戻れると、国民は期待して選挙を終えた。

 

 

 

ところが、右派自治政権は一年目から早くも難題に直面した。我が国では遥か昔から財政状況の悪化を受けて多額の赤字国債を発行し、その額は天文学的数字に膨らんでいたが、その国債の満期がとうとうこのときやってきた。政府はこの年を機に、国債の償還、つまり返済という窮地に立たされたのだった。

現実

投票したい政党がなければ自分たちで作る、政策は党員の議論で決める、これが大嘘であり、神谷宗幣に上手く取り入った、極右思想派とオーガニック信仰派が党を二分して、このふたつの思想に党が支配される状況になっていて、一般党員が政策論議に加わる余地がなくなっているのが参政党の現実です。

 最近大物二人が離党しました。

 藤村晃子氏、参議院選挙で神奈川県から立候補した人ですが、本人は、自分から参政党に入党したのではなく、神谷さんから頼まれて入党したが、当初の条件をなし崩し的に破棄されたことから、参政党側から頼んでおいて約束を守らないという憤りで離党したと言っています。

 これに対して神谷宗幣は、藤村氏が選挙のときに他団体を攻撃したので注意したら離党したとしていますが、この理由には言論弾圧ではないのかの批判もあります。

 松戸市会議員大橋博氏は、当選の2日後に離党しています。参政党公認なのに参政党の他の候補者から選挙妨害を受けた。参政党員がSNSで自分を応援しなかった。という理由を挙げています。

 これに対して神谷宗幣は 選挙のときに看板を公共物に立てた。先にSNSで離党を公表してしまった。離党の手続きが違っている。と反論していますが、党の指導力や候補者間の調整能力の不足が露呈していると言われても仕方のない状態です。

 この2人の離党に衝撃を受けて、自分たちで作る政党ではなかった、所詮は権力争いだけのところと失望して離党する一般党員も出ており、神谷宗幣は緊急メッセージを出してそういう人の引き留めに懸命になっている状態です。

 渡瀬裕哉・KAZUYA・篠原常一郎といった結党時の幹部は早い時期に離党しており、結党時の幹部で残っている有力者は赤尾由美と、吉野敏明の二人になっていて、赤尾の極右思想と、吉野のオーガニック思想が党を支配する状態になっていて、オーガニック極右政党となっています。

 赤尾と吉野の思想で党が固まってしまったので、投票したい政党がなければ自分たちで作る、政策は党員の議論で決めるという、当初の世間向けの看板は嘘になってしまっており、それに失望して離党する人も増えているのが参政党の現状であり、支持率の大幅減も内紛を反映したものであるといえます。

 

 

これが現実。

動乱④

あの左派政権の四年間は何だったのか、少し筆を休めて振り返りたいと思う。

 

 

 

左派市民連合は、大小様々な左派政党の集合体である。それぞれ理念も政策も違うが、連帯することで戦後初の政権を担うことになった。彼らがまず直面したこと、それは荒廃した国土の復興、そのための予算の確保だった。左派政権としては、増税をしないという前提で選挙に臨んだため、増税という選択肢は初めから奪われていた。連合内の一部政党からは、大胆な新規国債の発行という案も出たが、他党では慎重論が大多数だった。そのため、増税でもなく国債発行でもなく、外国債の売却での財源確保というところに重点を置くこととなった。

 

 

 

我が国は外国債を多く抱える債権国でもあった。これを段階的に売却、実質は切り売りであるが、これによって一定の財源を生み出すことは可能である。外国債を段階的に売却しつつ、国民に負担を強いずに国土を復興させる。そうした計画のもと、我が国の復興は始まった。

 

 

 

始めの一年近くはうまくいっていたように思える。戦災で焼け落ちた都市部も徐々に整備されていき、道路、鉄道などのインフラもわずかではあるが修復された。加えて、家屋が全壊した人々が入居する公営住宅も、都市部を中心にちらほらと建設が進んだ。ライフラインも少しずつ回復し、街には灯りがともった。街頭では炊き出しも行われるなど、多少なりとも活気が戻った姿も見られた。

 

 

 

だがそんな新政権の一年目、支持母体である労働組合が生活再建を理由に賃上げを要求して一斉にデモを起こしたところから雲行きが怪しくなっていった。ほとんどの企業は戦争で大なり小なりの損害を被っており、賃上げに応じる余力はなかった。そこで、不足分を国に負担するよう企業側も組合側も要求し、これに予算を割かなければならなくなった。国も労働組合と粘り強く交渉し、最終的には要求の半分ほどの賃上げを行うと約束し事なきを得た。

 

 

 

だが、さらに問題は起きた。戦争の影響で職を失った失業者が、各地で生活保護の申請を行うため役所に列を作ったのだった。自治体はその対応に追われ、戦災というやむにやまれぬ事情から多数の申請を受理せざるを得なかった。この保護費が地方財政を圧迫し、自治体は政府に地方交付税交付金の増額を要求、政府はこちらにも予算を割り当てることとなった。

 

 

 

年が明けて二年目、各地の市民団体が要求したのが、一律給付金の支給だった。現在の政府の施策では生活再建のための富が全体に行きわたらず不十分だとして、国民一律の給付金と減税を求めて全国の活動家が国会前に集まるといった事案が発生。初めは政府も黙殺したが、政府内の小規模な政党がこの活動に加わってから事態が変わった。政府内の連帯が崩れ、右派に付け入る隙を作ることを恐れた政府はやむを得ず年内の一律給付金支給と減税を決定してしまう。こうして、当初生み出した財源は瞬く間に底をついたのだった。

 

 

 

これらのことがあって、政府は当初の計画通りに国土の復興にのみ注力することが不可能になった。確保した財源は二年目で底をつき、減税措置も約束した影響でさらに財政は悪化し、身動きの取れない状況となった。このため、引き続き政権運営を行うためには新規国債の発行しか道はなく、政府内の一部政党はこれを強く求めた。こうして二年目以降は主に国債発行によって予算編成を行うこととなった。右派はこうした政府の姿勢を糾弾し、財政再建と緊縮を求める。国会は常時大荒れだった。初めは高かった政府の支持率も二年、三年と過ぎるごとに着実に下がっていった。もはや打つ手がないまま、国民の審判を受ける四年という期間は過ぎ去ろうとしていた。

動乱③

戦争終結後、初となる解散総選挙は史上最高の盛り上りを見せた。各党党首は公示前から全国を回り、所属議員、党員、支持者たちは全国各地で集会を開いた。都市部から地方の小さな町に至るまで演説の声が鳴り響きビラが撒かれ、テレビ放送ではどの局も通常番組を中止して選挙の模様を取り上げた。

 

 

メディアによる世論調査も盛んに行われた。その中で国民を驚愕させる事実が報道されたのは、選挙戦が始まって間もない頃だった。戦争前、長年安定した支持率を保ってきた保守合同政権が、惨敗する。そうした調査が発表された。防衛力の強化を唱えて国民に重税を強い、西の大国の兵器を大量に購入させられた挙げ句に東の大国に陸海空全ての会戦で破れ、国土を荒廃させられた上に早期に降伏し、他国の軍隊を我が国の領土に進駐させた責任、今後どのように国土を復興させるか見えない不安、そうした状況にあって、無党派層の大部分の支持が離れたことが痛手になったという。

 

 

一方で、左派市民連合と右派自治政党の支持率は拮抗していた。左派市民連合は国民の生活再建を掲げて完全雇用を訴え、外国債の大胆な売却による財源確保を提案し、右派自治政党は徹底した緊縮財政と地方の自立、他国に依存しない独自の防衛体制を目指すと訴えた。なお、共産党保守合同政権解体と戦争の責任を問う裁判を開くよう声高に叫んだ。

 

 

 

迎えた投開票の日。各地の投票所には朝から長蛇の列が並んだ。都市部も地方も投票所に入るまでに二時間待ちは当たり前といった状況が夜まで続き、職員は対応に追われ、一部では有権者同士の小競り合いが起きるなど、現場は混乱した。通常であれば投票が始まる以前から各局によって第一党になる政党がおおむね予想されることが通例ではあるが、このときはあまりにも左右の支持率が拮抗していたため、大手メディアでさえ優劣の予想がつけられない事態となった。

 

 

 

結局、二十時に投票が締め切られるまで投票所の混乱が収まることはなかった。直ちに開票作業が始まり、全メディアが各党の獲得議席を実況放送したが、結果が出るまでは明け方までかかると伝えられた。

 

 

 

国民が眠れぬ夜を過ごした後の運命の朝。第一党になったのは左派市民連合だと判明した。第二党は右派自治政党、保守合同政権は議席を十分の一にまで減らす惨敗を喫した。一方共産党議席を二倍に増やし健闘した。

 

 

 

この日から始まったのが、左派による旧保守合同政権への弾圧と政治的暴力だった。まず、旧保守合同政権の議員や党幹部が次々に逮捕され、投獄された。彼らは党員や主だった支持者の氏名、住所を自白させられた後、用済みとなった者から順に吊るされた。そして、情報をもとに一人また一人と逮捕され、その多くは釈放されないまま行方不明となった。これによって旧政権は機能停止に陥った。

 

 

 

さらに市民の間でも右派と左派に分かれての暴力が各地で起きた。左派は革命と称して右派を襲撃するといった事案が各地で起こった。他にも皇居や宗教施設への襲撃、略奪が行われ、政権はそれを黙認していた。そのため右派もこれに対抗して武装し、国内は準内戦の様相を呈してきた。全国各地で右派と左派の分断と暴力の嵐が吹き荒れる。一歩街に出ると、いつもどこかで怒号と罵声が聞こえ、道端には人が血を流して倒れている。そんな四年間だった。

 

 

 

この年月の間に旧政権の関係者は弾圧によってほぼ粛清され尽くし、それによって皮肉にも我が国は左派と右派の二大政党制に近づいた。また、左派市民連合各党の連携で外国債の売却、財政出動が行われ、戦火によって被害を受けた都市も少しづつではあるが復興の兆しを見せた。一方で左派と右派の対立は激化、国は大きく分断されることとなった。また、中央政府そのものへの信頼も弱まり、加えて政治的暴力から地域を自衛するために地方の住民は結束するようになり、地方自立の動きが高まった。これが後に、この国の新しい形が作られる上での基礎となるであろうことは、この時点では誰も知らなかった。